out of control  

  


   9

 ティバーンとの間が妙な雰囲気になっちまってどうしたものかと思っていると、丁度そこへグレイル傭兵団が合流して来た。
 その中にリュシオンがいたのは計算外だったが、ティバーンは知ってたくせに黙ってたんだな。
 まあ、言われたら俺が迎えに出ただろうから、今の俺の状態を心配したティバーンが黙ってたのは仕方ないだろうが面白くはない。
 そして合流の翌朝、驚くほどの村人に惜しまれながら、俺たちはデイン領により近いオルリベス大橋を目指して村を後にした。

「ネサラ、ここで休憩だぞ。水は?」
「あぁ……いや、まだ大丈夫だ」
「そうか、でも疲れたらいつでも言うんだぞ?」
「わかってる。ありがとう、リュシオン」

 徒歩のベオクと馬の脚のことを考えて空中から移動の道筋を確認していると、ティバーンにくっついてあれこれ聞いて回っていたリュシオンがすかさず飛んできた。
 リュシオンにまで言うつもりはなかったが、俺が化身の力を失っていることはすぐにばれた。
 昨日の騒ぎは思い出すだけで頭が痛い。ヤナフが言わなかったことで腹を立て、ティバーンがのん気にしていることで腹を立て、弱音を吐かない俺に腹を立て、最後には熱まで出して唸るものだから、ひょっとしたらこのまま寝込むんじゃないかと気が気じゃなかった。
 だが、リュシオンは朝にはすっかり熱を下げ、「ならば、私がおまえを守ろう」なんて言い出す始末だ。
 いや、もちろん寝込まれるよりは良いんだがね……。この通り片時も離れようとしないのには正直、参る。

「どうしたんだ? 預かったおまえの耳飾りはこの通り、落としてなんかないぞ?」
「いや、そんな心配はしてない」

 小首をかしげたリュシオンが懐から取り出したのは、いつも俺がつけている赤い耳飾りだ。
 いつもなら耳飾りの金具ぐらい気にしないところだが、今は化身の力を無くしてるからな。耳から凍傷になっちゃいけないってんでリュシオンに強引に外されたものだった。
 ……耳飾りには気がつくのに、それより大きな王者の腕輪は忘れてるのがリュシオンだよな。

「勇武の呪歌も効果がないのは驚いたが、もしかしたら父上や兄上ならば効果があるかも知れない。だからネサラ、力を落とすなよ。とにかく、周囲の安全は私が見るから、おまえはティバーンやアイクたちといるんだ」
「いや、さすがにそれは……」

 まあ、あのころと違って今は隠さなきゃならない事があるわけじゃない。だからそばにいられても困りはしないんだが……わずらわしくないと言えば嘘になるな。
 もちろん、リュシオンの気持ちは有難いし、うれしいんだがね。

「いいから! アイク、頼むぞ!」
「おい、リュシオン」

 俺の返事を聞くこともなく、リュシオンは俺の背中を押してぐいぐいとアイクたちの方へ下ろした。

「わかった。任せろ」

 アイクはクソ真面目に頷いたが、隣で訊いていたティバーンはにやにや笑ってリュシオンの後を追う。
 すれ違いざまに背中をぽんと叩かれてなにか言い返したくなったが、それも子どもっぽいような気がしてやめた。
 やれやれ、参った。こういうのはリュシオンたち鷺の専売特許のはずなのに、俺の方がすっかりお姫様扱いだ。

「疲れてないか?」
「……あんたまで妙な気を遣うのはやめて欲しいね」
「それはそうだが、リュシオンにきつく言われてるからな。それに、この辺りからますます寒くなってくる」

 そう言って俺に青い目を向けたアイクに、俺はため息を堪えて肩を竦めた。
 この辺りでは夜には霜が降りるし、整備されていない大小の石がごろごろした狭い道が枝ばかりになった林の中を通っている。
 実際、デインに近づくにつれ寒さが厳しくなってきていて、俺も今はオスカーが作ってくれた翼の出せる外套の世話になっていた。
 これでもラグズの王だってのに情けないが、つまらん意地を張って体調を崩すのはもっと情けないと思ったからだ。

「まだ大丈夫だ。俺は書きたい書類があるから向こうの岩陰にいる。なにかあれば呼んでくれ」
「一人で行くつもりか?」
「心配しなくても目の届く範囲にいる」

 アイクから少し離れると、すぐにリュシオンが降りてこようとする。でもティバーンが止めてくれているのが見えた。
 そうそう、そっちはしばらく頼む。リュシオンがいるとおちおち書類もまともに書けないんだよ。
 俺が目指したのはこの辺りで一番大きな岩がごろごろと集まったところだ。上に立って辺りの安全を確認してから、岩の陰に座り込む。
 背中は見えるんだからこれで文句はないだろう。
 とりあえず、これでやっと人心地ついた。
 それにしても……。リュシオンのあの自信は、ティバーンが渡した術符が原因だろうな。
 昨夜、アイクたちが村に着くまでの道中に一度例の怪物の襲撃があったことは聞いた。リュシオンが使う術符は実際に役に立ったらしい。確かに鷺の魔力の高さはラグズでも随一だ。
 普通なら癒しの力として使えるだけのはずだが、リュシオンは鷺の中でも規格外だからな……。
 今も上空で張り切ってきょろきょろと敵の姿を探す姿には思わず笑いがこみ上げる。
 昔も今も変わらないな。
 あいつは雛のころから気が強くて、俺はどちらかというと気が弱かった。というより、慎重だった。まあ鴉の平均的な性格ってやつだ。
 だからいつも嫌がる俺をあいつが引きずって「冒険」という名を借りた猛特訓につき合わせたもんだ。
 もしかしたら俺が鴉王になるほど強くなれたのは、あいつのおかげもあるのかも知れない。そんなことを言うと、あいつはいやな顔をするだろうけど。
 そんな懐かしい雛時代のころを思い出しながら、俺は下書き用に携えた荒い作りの紙を取り出した。
 これはピルマと呼ばれるセリノスの川辺に生える水草で作ったものだ。羊皮紙は高価だし、作るのにも手間が掛かる。竹簡はかさばるし、もう少し気楽に使える紙が欲しくていろいろ試行錯誤してるんだが、ようやく実用レベルのものができてきた。
 ゆくゆくは紙を漉く技術を発展させてそれを特産品の一つにできればと思ってるんだ。
 今は鳥翼族ならではってことで速さ自慢の荷運びなどを請け負って外貨を稼いだりしているが、軽いものならともかく力仕事は鷹任せになる。鴉の器用さ、忍耐強さを活かした仕事を考えたい。
 セリノスに移住することになって、今は建築作業ばかりだ。そうなると力で劣る鴉はどうしてもお手伝いの位置になってしまう。もちろん、他にも食事を作ったり細々とした仕事はあるが、文官のほかはほとんどが鷹の世話になっている状況だからな……。
 鷹たちの間にも、「自分たちは兄貴分なんだから庇ってやらないと」って空気が垣間見える。
 書類仕事は表から見えないし、最初に力仕事ばかり重なったのが痛かったな。
 鷹のあの単純な実直さは嫌いじゃないが、この事態が長引けばまた昔のようになるのは目に見えてる。
 大体、鷹の親玉のティバーンからしてあの通りだ。
 人目のあるところでティバーンに構わせるのは止めさせなきゃいけないな。
 もちろん、今は一介の部下に過ぎない俺がティバーンに偉そうな態度をとるわけにゃ行かないんだが。
 どうしたものか……。
 ざらついた紙を見ながらついため息を漏らしたところで、俺はふと近づいてくる気配を感じた。ベオクにしては鋭利なこの気配はグレイル傭兵団の弓使い、シノンだ。
 意外だな。この男はいつも極力他人には関りたくないって空気がむき出しなのに。

「……飯だ」

 そろそろ見慣れた不機嫌そうな顔で突き出されたのは、チーズとベーコンを挟んだ小ぶりなパンと、使い込まれた椀に入ったスープだった。

「これはどうも」

 礼を言って受け取ると、シノンは何も言わずに隣に立ったままそっぽを向く。
 珍しいこともあるもんだ。……もしかしたら俺になにか用でもあるのか?

「そこに突っ立っていられると食べ難いんだがね」
「…………」
「せめて座らないか? あんたが来るのは珍しいな」

 控えめに、「用があるなら隣は空けるぞ」と伝えると、一つ舌打ちしたシノンが肩口を零れる赤毛を背中に流して隣に座った。

「……いつもならオスカーに任せるんだが、あいつは今ガトリーと馬に水を飲ませに行ったんでな」
「ガトリーと?」

 あの陽気な重騎士はどちらかというとこのシノンと並んでる…じゃないな。付き従ってる印象が強いから意外な組み合わせに感じて訊くと、シノンはニケに似た濃い緑の視線を俺に向けて答えた。

「いくら重騎士でも移動の時まであの鎧を着込んでるわけじゃねえ。オスカーの馬に乗せてるんだ。だから、馬に礼を言わなきゃ駄目だろってな」
「あぁ、なるほど。そりゃそうだ」

 ちゃんと馬を大事にしてるんだな。
 当たり前のようだが、騎士の中ですらそれができないベオクは少なくない。だから笑って頷くと、俺は湯気の立つスープを一口飲んだ。黄色くてとろみのあるスープはとうもろこしの粉と卵で作ったものだ。冷えて疲れた身体に甘く染み渡る。
 パンだけじゃなくてベーコンも少し胡椒をつけて軽くあぶってあって、とろりと溶けたチーズと香ばしい匂いが食欲をそそった。

「……あんたの食事は?」
「先に済ませた。作る時についでにな」
「じゃあこれはあんたが?」
「なんか文句でもあるのかよ」

 驚いた。てっきりオスカーだと思っていたが、そう言えばこいつも料理が上手いらしいな。子どもの方の弓使いに聞いたことがあるのを思い出した。
 じろりと睨むシノンにちょっと笑って「まさか。美味いから礼を言いたくなっただけだ」と言うと、いかにも不機嫌に鼻を鳴らしてそっぽを向かれて、俺は本当に笑いそうになった。
 なるほどね。照れ屋なわけだ。
 わざわざ他人のためにこんな繊細な仕事をするくせに、態度がこうじゃなかなか理解されないだろうな。
 もっとも、そんなことを言うと修復不可能なほどヘソを曲げられちまいそうだから黙っとくがね。
 冷めたらせっかくの飯が不味くなる。敬意を込めて急いで食べると、手に垂れたベーコンの脂を拭く前に目の前に手巾が突き出され、ティバーンの担ぐ荷物袋に入れたままの水筒を取りに立つ前に、今度はシノンの水筒を突きつけられた。

「ええと、重ね重ね、ご親切にどうも……」
「へッ、心にもねえこと言うな。中身は薄めた酒だが、飲めねえことはないんだろ?」
「あぁ、それなら問題ない」

 いい具合に薄められた葡萄酒で口の中もさっぱり流したところで立つかと思ったら、やっぱりシノンは隣に陣取ったままだった。
 ……本当に珍しいな。
 しかし、三年前の戦いの時も、この前の女神との戦いの時も、こいつとはほとんど会話した記憶がない。
 どう水を向けたものか迷っていたら、本当に渋々といった様子でシノンが口を開いた。

「鷹王…鳥翼王か。王とは上手く行ってんのか?」

 今度こそ驚いた。まさかベオクのシノンの口からそんな話が出るとは思わなかったからだ。

「なにか問題があるように見えたのか?」
「べつに。あんたたち、本当につがいなのか?」

 言われた瞬間、顔に血が上る。こんなことを訊くくせに、興味なさそうなシノンに横に振りかけた首を止めて、俺は我ながらぎこちなく視線を逸らした。
 どうしてこいつが急にこんな話を俺に振ったのか見極めるまでは、何と答えたものか迷ったからだ。

「村の連中が野郎同士でも見事なつがいだって言ってたんだよ。武器屋に行った時もそうだったし。……けど、なんとなくあんたの方は違うように見えたんでな」
「そうか。ベオクの社会じゃ同性のつがいは嫌悪されると聞いたが、意外にそうでもないんだな」
「一部、そんな連中がいるのは確かだが、男は同性との経験が全くない方が珍しいぐらいだ。ただつがいになるのが珍しいだけだろ」
「…………」

 なにが言いたいんだ?
 シノンがこんな会話を始めた理由がわからなくて、風に吹かれた枯草がかさかさと音を立てる地面を見ていたら、シノンが困ったようなため息をついた。

「念のため、訊いただけだ。オレはあの鳥翼王がそんな無理を強いるとは思っちゃいねえ。ただ、妙な空気を感じたんでな。……ウチの頑固な団長も、他の連中も、まだあんたを団に誘ったことを忘れちゃいねえし」
「え?」
「誘っただろうがよ」

 驚いて向き直ると、シノンも少し赤くなっていた。
 誘った? 誘ったって……ああ、もしかしてあれか。
 女神戦の祝賀会の後、俺をその場で処刑するかどうかでもめた時のことか?

「チッ、覚えてねえのかよ」
「いや、思い出した。あの時はちょっと意識が朦朧としていたからな。すまない」
「謝んな。べつに、謝らせる気はねえ」

 ようやく思い出して言うと、シノンは射殺すような目つきで睨んで苛立った仕草で落ちかかる前髪をかきあげる。
 それからまたしばらく黙って、ふっと視線を和らげた。まあ和らいだところで、基本的な目つきの悪さはどうしようもないが、少なくとも本人に睨むつもりはないってことだろう。

「で、どうなんだ?」
「どうとは? すまないが、話がよく見えない」
「あのな、だから…ッ」

 とりあえず、主語と述語を繋げて話してもらいたいね。
 首をかしげた俺に苛立ったシノンが大きな声を出しかけて、離れたアイクと戻ってきたらしいオスカーとガトリーの視線がこちらに向く。
 身振りで「なんでもねえ」とその視線を払うと、シノンは面倒そうに頭を掻いてもう一度俺に向き直った。

「あんた、意外に察しが悪いな」
「必死で察してばかりの日常からようやく離れられたせいか、どうもこの辺りが鈍ったようでね」

 笑ってとんと自分のこめかみを指すと、シノンは意外そうに目を丸くして、「そんなわけあるかよ」と笑った。
 ようやく雰囲気が丸くなったな。これなら口も軽くなるだろう。
 ベオクとしちゃ立派に大人なんだろうが、俺から見たらこのぐらいの歳の相手は反抗期のガキと同じだ。
 こっちが鷹揚に構えてないと話もままならない。

「もしも、あんたが団に入りたけりゃ来ればいい。あいつも言ってた通り貧乏だからな。来るなら元王だろうがなんだろうが働かせるが、あんたと、あんたの腰ぎんちゃくの年寄りぐらい食わせる余裕がないわけじゃねえ」

 今度こそ俺も驚いてシノンの緑の目を見つめ返すと、シノンは相変わらずぶっきらぼうな口調で続けた。

「言っとくが、オレの意見じゃねえぞ。頑固な団長と、その妹と、他の連中の意見でな。あんたにはウチのもう一人の弓使いも世話になったようだし」
「ヨファだったか? べつに世話なんかした覚えはないぞ」
「砂漠で弩持ちを深追いしすぎて危なくなったところを拾われたって言ってたぜ。そのせいであんたが傷を負ったってな」
「あんなの傷のうちにも入らない。それに、あの坊主が感謝するなら俺よりもスクリミルの方じゃないのか」

 砂漠でいっしょに戦ったのはユンヌに言われて三部隊に別れたあとだ。小さな弓使いのヨファはスクリミルの背中に乗って縦横無尽に砂漠を走り回って活躍していた。
 俺が助けたのはたまたまスクリミルの化身が解けて、一瞬だけ無防備になった時だからな。
 まあ、その一瞬が命取りになるからこそ、俺も拾ったんだが。

「だから、そのスクリミルごとヨファをあんたが庇ってくれたってよ。ほかにも色々世話をかけたらしいな」
「そんなことは、べつに……。ただ、おまえのことはよく聞いたかな」
「あ?」
「シノンさんは凄いんだ、シノンさんはこんなこともできるんだ、シノンさんは……って、身振り手振りで話してくれて、俺も気が紛れた。レース編みまで上手いそうだな?」
「あの馬鹿……」

 当時を思い出して言うと、シノンは疲れたようにぐったりと項垂れて立てた自分の膝の間に顔を落とした。華奢ってほどじゃないが、アイクたちと比べると少し細い背中をさらりと赤い髪が滑る。
 この色は……。
 その髪の色にふと懐かしい気持ちが湧いて、俺は何気なくシノンの髪に触れてみた。

「なんだよ?」
「いや、懐かしい色だと思ったから」
「けッ、赤毛の知り合いでもいるのか?」

 むっとはしたらしいが、俺の手を払いのけることもなくシノンは俺の手から自分の髪を取り上げた。

「そうじゃない。……フェニキスに咲く花と同じ色だから、つい気になっただけだ」

 今年はもう、咲くかどうかわからないが。
 そう続けてしまったのは、シノンがベオクで、フェニキスの惨状を直接は知らないからだ。
 それでも、話は知ってるんだな。シノンは開きかけた口を閉じて一瞬黙ると、「ああもう、面倒臭えな!」と言って立ち上がった。
 いきなり俺の頭を掴んでぐしゃぐしゃと撫でながら。

「ガラにもねえこと言わせんじゃねえよ。オレの用はそんだけだ! まだなんか訊きたけりゃアイクかオスカーにでも訊きやがれ!」

 シノンはそのまま行きかけて、思い出したように振り返る。

「言い忘れたが、もうすぐ出発だぜ。ほどほどにしてこっちへ戻れよ」
「……わかった」

 それからシノンは、のろのろと筆記用具を片付けながら頷く俺に一つ鼻を鳴らして戻っていった。
 らしくない、か。……それは俺もだな。
 乱暴にかき混ぜられて乱れた髪を手櫛で梳いて、胸にこみ上げた苦い感情を飲み込む。
 ………甘えだな。
 あの花と同じ色の髪を見て、たまらなくなった。
 覚えてるんだ。鴉王になって初めてフェニキスに招かれた日、ティバーンに案内されてあの花の群生地を見た。
 それはもう見事で……今はもう、一本もない。
 ほかにも、たくさんの花が咲いていたのに。戦で踏み荒らされて、燃やされて、枯れてしまったかも知れない。
 セリノスの花を見てそう思った俺に、心の壁を越えて心を読むラフィエルは「花はそんなに弱くはありませんよ。もっとしたたかで強いものです」と微笑んだけれど。
 そう簡単に気持ちは変えられないからな……。
 努めて考えないようにしているが、化身できない不安だって大きい。ただでさえ気分が下降気味なのに、こんな時の俺はどうしようもない。
 じわじわと昇ってくる焦燥感をどうにか無表情な顔の下で押さえつけると、俺は結局なにも書けないまま筆記用具をすべて片付けて立ち上がった。

「ネサラ!」
「なにか異常はなかったか?」
「もちろんだ。私とティバーンを信じろ!」
「そりゃ、信じてるさ」

 歩き出す前にふわりとそばにリュシオンが舞い降りる。
 リュシオンに悟られちゃいけない。もう隠し事をしなくても良くなったはずなのに、またこれだ。
 もしかすると俺の人生は一生、こうやってなにかを胸に隠したままなのかも知れないな……。
 そんなことをぼんやり思いながら、俺はアイクたちの元に戻った。

 この日は天候にも恵まれ、予定よりもずいぶん進むことができた。
 途中で妨害に遭うこともなく、かなり広範囲を見てきたらしいティバーンとリュシオンの報告によれば異変はなかったとのことで、逆にこの静けさを不気味に思ったほどだ。
 川で俺に襲い掛かったあの水の化け物……ルカンのことを思い出すと、どうしても不安はつきまとう。
 今となっちゃすっかりタイミングを逃してしまって、今さら「ルカンを見た」なんて言い出せないし、言いたくもない。
 次の村まではまだ距離があるから、森を一つと丘を一つ越えたところで今夜の寝床が決まった。
 寝床と言っても、簡易テントは一つしかないから当然の流れでリュシオン専用になる。他の者は火を焚いて雑魚寝だ。
 東側に小高い丘を見上げて小さな林を風除けにガトリーとオスカーが簡易テントを張っていると、干し肉だけじゃつまらないんだろうな。ティバーンが日暮れ前にどこからともなく猪を狩って来て、夕食はずいぶん豪勢になった。
 もっとも、それは肉好きなティバーンとアイクだけか。リュシオンはいらない勇気を奮って一口食おうとするものだからそれを俺がなだめて、オスカーがいつもの木の実を差し出すと面白くなさそうに焼けた肉を眺めてた。
 リュシオンがかわいそうだからな。俺も付き合って木の実を摘んでいたんだが、それをどう勘違いしたのか、ティバーンとオスカーに二匹しか取れなかった魚を差し出されてちょっと困った。
 いや、魚は好きなんだがな。俺だけ美味いものを食うようで落ち着かないだろ?
 結局ティバーンがしつこく勧める一匹だけを食って、俺は早々に食事の輪から抜けたんだ。

「ネサラ、水辺に行かないか? 汗を流したいだろう?」
「いや、水辺は……」
「怪物のことなら、私がいれば大丈夫だぞ!」

 後ろからリュシオンがついてきて胸を張る背中から、シノンがぼそりと「オレも行く羽目になるんだがな」と付け加える。
 いやいや、それ以前にこの寒さだ。さすがに氷が張るような水辺で水浴びはできない。

「いや、水場は無理だ。身体を拭くだけでいい」
「そうなのか? ティバーンは行ったぞ?」
「ヤスリをかけても平気そうな鷹の皮膚と鴉の皮膚をいっしょにしないでくれ」
「ははは、いくらティバーンが丈夫でも、皮膚はヤスリをかけると血が出ると思うぞ?」

 呆れてそう言うと、リュシオンは笑いながらぽんぽんと俺の背中を叩いた。
 なによりもう夜だからな。俺たちの視力でそんな冒険は避けたい。
 それでもリュシオンは一応納得したらしく、俺たちは簡易テントの中で身体を拭くことにした。水を汲みに行くつもりだったんだが、オスカーが気を遣ってくれたんだな。お湯と手ぬぐいを持ってきてくれたのは有難い。
 風呂じゃなくても、こうして汗を拭くだけでも気分が違う。

「……なんだ?」

 一人用のテントだ。翼をしまっても肌が触れ合いそうな距離にいるリュシオンの視線を背中に感じて訊くと、長い沈黙のあとでリュシオンが言った。
 いつもの尊大な口調とは違う。ずいぶん小さな、不安そうな声で。

「なにが理由か考えてたんだ……」
「俺が化身の力を無くしたことか?」
「そうだ。まさかおまえ、またどこかの誰かになにかされたのに黙ってるんじゃないのか?」

 おいおい、どうしてそこまで話が飛躍するんだ?
 思いつめたような声音にゆっくりと振り返ると、天井から吊るしたランプの下、上半身をはだけて真っ白な肌を晒したリュシオンが見目にそぐわない強い視線で俺を見つめる。

「思えば、おまえはずっと隠し事をしていた。私は鷺だ。それぐらいはちゃんと気がついていたんだぞ? でも、人の心が伝わるからこそ、人が隠したものを暴いてはいけないのだと教えられて育ったし、特におまえは大切な友だちだった。だから、おまえが言いたくないこと、隠したいことは絶対に見てはいけないとひたすら目を逸らして、逸らし過ぎて……今は後悔してるんだ」

 リュシオンは真剣だ。本気で後悔してるのが伝わってくる。
 それなのに、そんなリュシオンの真摯な眼差しを見つめながら俺の脳裏に過ぎったのは、「気がついてたのか」なんて一言だった。
 いやいや、もちろん、これには蓋をしたぜ? でなきゃ怒り狂うからな。
 ラフィエルの力は別格だ。会えばなにもかも見透かされる。最初に再会した時、一瞬目を見開いたラフィエルはすぐに涙ぐんで、でもその涙を飲み込んで、なにも言わずに俺を抱きしめた。
 リアーネはまだ力の開花途中だが、それでもリュシオンよりは鋭い。現代語がまだ上手く話せないってんで何度か助かったが、リュシオンはな……。
 鷹の中で育って、ティバーンに憧れて、身体が少し強くなった代償のように鷺特有の力は弱まった。そう思っていたのに。

「人の秘密を暴くのは卑しいことだ。私はおまえに嫌われるのが怖かった。だけど、おまえに嫌われることよりも、おまえが辛い思いをする方が何倍も悲しい。そんなことにも気がつかないで……」
「リュシオン」

 そう言って俯いたリュシオンの頭に、俺はそっと手を伸ばした。
 細い肩が震えてる。こんな風に苦しめたくなかったのにな……。
 おまえのその性格を利用して隠したのは俺なのに。そこは俺を恨めば済む話じゃないのか?

「ちがうッ!」

 おっと、読まれたか。
 今度は怒って睨みつけてきたリュシオンに、俺はちょっと笑った。
 笑って、今度は心から言ったんだ。

「隠し事ができるってのはな、俺とおまえが対等だってことだよ、リュシオン。そうだろ?」
「…………」
「ティバーンなんか見てみろ。俺も王になったってのに、未だにアレだ。自分がどうしても知りたいと思ったら、俺の気持ちなんか考えもしない。それこそ足首掴んで振り回してでも吐かせようとするぜ? 雛のころみたいにさ」

 もっとも、もうそう簡単には掴ませねえけど。
 肩を竦めて付け足すと、リュシオンは目を丸くして笑った。花が綻ぶように。

「酷いやつだな。ティバーンが聞いたら怒るぞ」
「勝手に怒りゃいいさ。俺は嘘は言ってない」
「まったく……。おまえは変わらないな」
「お互いさまだ」

 どんなことがあっても。
 思えば、俺も、リュシオンも、いろんなことがあった。
 俺はいきなり王になって誓約と国を背負い込んだし、リュシオンは国も家族も民も失った。
 それからもきっと、お互いに知らない様々なことがあっただろう。
 それでもリュシオンは変わらなかった。ティバーンがこいつの心を守ってくれたってのはもちろんあるだろうが、自分自身を見失わずに顔を上げて凛と立っていられたのは、こいつ自身の強さだ。
 ひとしきり笑って今度こそ身体を拭くと、俺は手ぬぐいと洗面器を持ってテントを出た。
 気をつけて速度を落としてるって言っても、リュシオンには負担の多い旅だからな。早く休ませたかったんだ。
 こんな薄いテントでもそれなりに防寒に役立つようで、外に出るとすぐに厳しい冷気がむき出しの肌を刺す。
 慌てて出入り口を閉めると、俺は相変わらずにこにことしてるオスカーの手に手ぬぐいと洗面器を手渡した。

「助かった。ありがとう」
「どういたしまして。さあ、火のそばへどうぞ」
「ここです、ここ! ちゃんとあっためときましたよー!」

 肩から外套を羽織らせてくれたオスカーが促した先で、ガトリーが焚き火にかざしていた毛皮を敷いてからぶんぶんと手を振る。まあ、当然の成り行きだろうが、ティバーンの隣だ。

「ここ、座ってもいいですかね?」
「言っとくが、いくら俺でもそんなナリになったおまえの足首掴んで振り回すなんて真似はしねえぞ?」
「言葉のあやだ。気にするな」

 やっぱり聞いてたか。焚き火に照らされた顔があんまり不機嫌でつい笑っちまう。
 屈んで太い肩を掴む前に手を支えられて、俺は逆らわずに隣に座った。
 敷物にした羊の毛皮が暖かい。視線と小さな会釈でガトリーに礼を伝えると、ガトリーはへらりと笑って頭を掻いた。
 アイクとシノンは……もう寝てるんだな。いくら毛皮や毛織の外套を持っていてもベオクじゃこの寒さは厳しいだろうに、さすがは傭兵ってところか。
 でも、それなら誰から夜番をすればいいんだ?

「じゃあお二人ともお先にお休みください。私どもの次はアイクとシノンで、夜明け前の夜番をお願いします」
「わかった」

 なるほどな。俺たちは朝が早い。合理的だ。
 オスカーの言葉に頷くと、俺は外套を被って毛皮の上に転がった。
 不本意だが、ティバーンもいっしょだ。これはお互いに体温を逃がさないためで、俺たちだけじゃない。
 ティバーンは相変わらず体温が余り気味のようで、こうしてくっついてるとすぐに寒さを忘れる。
 ……寝る時ぐらい、胸元を閉めりゃいいのに。まあ、こうして頬を寄せりゃ暖かいから、有難いっちゃ有難いがね。
 ティバーンも戦士だからな。少しでも睡眠時間を無駄にしないようにもう寝てる。こんなところは見習わなきゃな。
 力強い心臓の音と落ち着いた寝息を聞いてるうちに、本格的に俺の瞼も重くなった。
 遠い狼の遠吠えと、かすかな風に揺れる木々の音、それから優しくはぜる焚き火の音を聞きながら、つかの間、俺の意識は眠りの中に落ちていった……はずなんだが。
 安息はそう長くなかったらしい。
 疲れてたからな。俺としちゃこのままぐっすりと交代まで眠りたかったんだが、そうはいかなかった。
 上手く言えないが、俺の意識に妙な違和感が触れたからだ。
 浅い眠りじゃなかった。その証拠に、身体の疲れはずいぶんマシになってる。
 ………なんだ?
 ゆっくりと目を開くと、眠った時と同じように目の前にティバーンの胸元があった。
 身じろぐ前に俺を抱き寄せた逞しい腕に気がついて、起こしちゃ悪いからな。俺は視線だけで辺りを探った。
 気配で見張りがアイクとシノンに変わったのはわかる。何時だ? この暗さならまだ夜明けまで間があるらしいことぐらいしかわからないが……。

「どうした?」

 仕方がないな。起こさないように気をつけながらティバーンの腕を外して起き上がると、アイクが声を潜めて訊いて来る。俺が答える前に、シノンが焚き火に枯れ枝をくべながら言った。

「鳥翼王の腕が重かったんだろうさ。もうちょっと眠ってな。交代まではまだ間があるぜ」

 そう言って笑ったシノンが熱いお茶を手渡してくれる。
 だが、そのお茶に俺は口をつけられなかった。
 リュシオンが眠ってる簡易テントの幕が、音もなく開いたからだ。
 手も使っていない。まるでリュシオンのためにテントがひとりでに布を開いたように。

「リュシオン?」

 驚いた俺とシノンの視線で初めて気がついたらしいアイクがテントの方を見る。
 まるで夢を見ているように虚ろな表情で滑り出て来た、リュシオンの白い全身が淡く光っていた。
 金色のこの光は、白鷺特有の魔力だ。
 そんなリュシオンになにか訊く前に、俺とリュシオンの視線が同時に動く。水場のある方角へ。

「なんだ…?」

 続けてシノンが視線を向けた。矢筒に手が伸びたのは本能みたいなものだろう。
 遅れておとなしい馬が不安そうに小さくいなないてオスカーが起きて、シノンに蹴られたガトリーが寝ぼけ眼で槍を手繰り寄せる。
 肌を刺すのは、あの気配だ。
 ほとんど無意識にこの先にある水辺へ行きかけた俺の身体を、力強い腕が捕まえた。てっきり眠っていると思ったティバーンだった。

「起きたのか」
「狼の気配が消えた時点で起きてたぜ」
「狼? そう言えば……」

 言われてみれば確かに、遠巻きに感じていた気配が全くない。ほかの動物の気配も。
 今はまだ冬だ。冬眠の時期だってのは置いても、森の中でここまで生き物の気配がなくなることはまずないのに。

「リュシオン、行くな」

 ほとんど羽ばたかずに浮かんだまま、滑るように水場の方へ向かうリュシオンの腕をアイクが掴む。
 そのアイクの息が一瞬詰まったのは、リュシオンの魔力に弾かれかけたのを堪えたからだ。

「リュシオン、いるんだな?」

 低いティバーンの問いかけにはっきりと頷いたリュシオンの目に、正気の光が戻った。
 同時に近づいてくる気配は、あの泥人形のものだ。
 ……囲まれてるな。
 姿は見えなくても、やるしかない。
 くそ、こいつらが出る時は事前に雨が降るんじゃなかったのか?
 舌打ちして立ち上がろうとした俺をティバーンの腕が抑えたが、俺は従わなかった。
 わざわざ気配を探らなくても、俺の五感が覚えてる。この気配は、あの男……ルカンのものだ。

「ネサラ、おまえはここにいろ。火を守る者が必要だ」
「あんたが守ってりゃいいだろ。別に深追いはしない」
「おまえなあ……ったく。オスカー、ガトリー、頼めるか?」
「ええ。わかりました」
「祝福された銀の槍もありますしね。了解っす!」

 不毛な言い合いを避けて立ち上がったティバーンに二人が頷いて、続いてアイクとシノンも立ち上がる。
 ふわりと焚き火の上を越えたリュシオンの左の翼をかすめそうな位置を、シノンの放った銀の矢が通った。
 普通ならこんな撃ち方は絶対に許せないが、こいつだけは別格だ。故意じゃない限り狙った的を外さない。
 なにか柔らかいものに刺さる音がして、ほどなくべしゃ、とそれが崩れる音が聞こえた。

「結構近いぜ。見えないなら、お二人さんはここに残ったらどうだ?」
「心配いらねえ。気配だけで充分だ」
「シノン、左を仕留めろ! あんたたちはリュシオンを頼む」

 大剣を抜いたアイクの指示にシノンはすぐさま左の闇に向かい、二度、三度と続けて銀の矢を放った。
 どれも命中したらしいのはさすがだ。それに、あの泥の化け物が崩れたまま再生する気配がないのを見ると、どうやら本当に清められた銀の武器ってのは効果があるようだな。
 ……あとは、俺たちの方か。

「リュシオン、ネサラも離れるなよ。とどめはおまえたちにしか任せないんだからな」
「わかっています!」

 ティバーンの指示にリュシオンは大きく、俺は小さく頷いた。
 それにしても、せめて月でも出ていればいいものを、これじゃ本当になにも見えない。アイクの気配を追いながら、俺は懐に入れた術符を掴んで小さく息を呑んだ。
 くそ、まただ…!
 俺の意識を奪うあの「声」を感じる。

「リュシオン!」
「任せろ!」

 アイクの呼びかけに応じたリュシオンの手から金と真紅の光を帯びた術符が投げられた。
 その先にあったのは、人一人分ほどの泥の山だ。もぞもぞ動く泥に術符が触れた瞬間、鮮やかな炎がその泥の山を包み込んで辺りを照らした。
 その光で、闇に弱い俺の目にも辺りを蠢く影が見える。
 二、三、……とりあえず、近いのは四体か?

「ネサラ、こっちは頼むぜ!」

 俺の返事よりも早くティバーンが影に肉迫して、振り下ろされた槍を無造作にもぎ取った。それから、その槍でなぎ払うように泥人形を斬り付ける。
 おいおい、そんなやり方で自分が泥を被ったらどうするんだ!? せめて化身…って、あの図体じゃこの森の中で戦えないか。
 それでも、無神経にもほどがあるだろうに。

「ティバーン、避けてろ!」

 まったく、困った王様だぜ。
 握った術符に魔力を込めて放つと、慌てたように一つに戻ろうとした泥の塊に魔道の炎が点く。
 その炎がむき出しになった人骨に触れた瞬間、声にならない悲鳴が俺の頭に響いたような気がした。
 骨になっちまっても痛みってのはあるのかね? ……もしそうなら、ぞっとしねえな。

「鳥翼王、相手の持っていた武器を使うのは危ないかも知れん。だからあんたは攻撃を防いでくれるだけでいい」
「そうか。なんだか、見物しにきたようで悪いな」
「いや、背後を気にせず戦えるだけで充分有難い」
「はは、そりゃそうだ」

 アイクの言葉ににやりと太い笑みを返すと、ティバーンは鈍い弓弦の音とほぼ同時にリュシオンを狙った矢を腕で払い落とした。
 こっちは見えないってのに、弓兵までいるのか?
 ぞっとして視線をやった先に、泥人形の割にはずいぶんしっかりと弓を構えた影が見える。

「先に仕留める!」

 剣や槍よりも弓は危ない。
 そばにいる二体の泥人形を無視する形でアイクが走り、俺も後を追った。もちろん、止めを刺すためだ。
 もしも矢に当たったとしても、リュシオンより俺の方がまだ生き残る可能性が高いからな。

「鳥翼王は翼で矢を叩き落すが、あんたにもできるのか?」
「できないね。そんな真似はティバーンぐらいの筋肉ダルマじゃなきゃ無理だ」
「そうか。なら、俺の背中から離れるな」
「了解。せいぜい盾になってもらうぜ」

 実は、筋肉そのものよりも鷹と鴉の翼の質の違いなんだがね。あいつの翼の筋肉がずいぶん多めなのは嘘じゃないが。
 だから、これは仕方がないことだ。自分でもわかっちゃいるんだが、庇われるってのは面白くないな。
 そんな俺の気持ちを読んだのか、一瞬視線を寄越したアイクの目が笑ったような気がして、俺は舌の一つでも出してやりたくなった。
 アイクが迫るまでに俺を狙った矢は一発。苦もなくそれを刃の横っ面で弾くと、アイクのアロンダイトが左腰から右肩に向けて泥人形を斬り上げた。

「鴉王!」
「退きな」

 後は俺の仕事だ。放った術符が半分むき出しになった泥人形の頭蓋骨に触れて燃え上がる。

「…ッ」
「鴉王?」

 なんだ……!?
 瞬間、頭の中で誰かの絶叫が聞こえた。さっきのような、気配じゃない。今度ははっきりと。
 息を呑んで振り返ると、それぞれ剣を握った泥人形二体を防ぐティバーンの後ろから俺を見たリュシオンの視線とぶつかる。
 どうやら、リュシオンにも聞こえたんだな。

「鴉王、大丈夫か?」
「あ、ああ。悪い。戻ろう」

 俺たちが戻る前にぎこちなく視線を戻したリュシオンが術符を投げて、あっけなく二体とも崩れ落ちた。

「ネサラ……」
「わかってる。行こう」

 親玉はこの先の水場だ。くそ、川でのことがあるからな。近づきたくはなかったが、そうは問屋が卸さないってところか。
 酷く緊張したリュシオンの肩を抱くと、俺は油断なく先を急ぐアイクとティバーンの背中に続く。
 一人でも杖使いがいればトーチの光で楽ができたものを、タイミングの悪さはどうしようもないな。
 いや、相手からすれば好都合ってことなんだろうが。

「弓だ! 二人とも伏せてろ!」

 だんだんと開け始めた木立を抜ける直前にティバーンに怒鳴られて、俺とリュシオンは慌てて茂みに身体を隠した。
 気配でティバーンが自慢の翼で数本の矢を叩き落としたのがわかる。
 だが、全部はさばき切れなかったらしいな。冷たい風に乗ってうっすらと鉄の匂いが漂ってきて、遅れてそれに気づいたリュシオンが息を呑んだ。

「ティバーンが怪我を…!」
「立つな! 元からあれだけ傷だらけなんだ。その傷が今さら一つや二つ増えたところでくたばったりしない!」
「の、呑気なことを! 心配じゃないのか!?」
「はン、まずは自分の心配だろ。俺も、おまえも」

 同じように庇われてる最中なんだから。
 言外にそう仄めかすと、リュシオンも俺の真意がわかったんだろう。悔しそうに唇を噛み締めて視線を戻す。
 どうせなにも見えちゃいないが、気持ちだけでも負けまいってのは大事なことだ。

「ネサラ、リュシオン! 来い!!」
「はいッ!」

 ほどなく力強い声が聞こえて、俺は勇んで立ち上がったリュシオンを追って飛んだ。もちろん、いつ矢が飛んできてもリュシオンの前に回りこめるだけの距離は保ちながら。

「リュシオン、鴉王、ここだ!」

 駆けつけた先に、丁度三体分の泥人形が山になって蠢いていた。
 とどめを刺したのはリュシオンだ。術符を取り出した俺の手首を掴んで止めて、怒り心頭の様子で投げつける。
 怒りの分、力が増したのかね? ちょっとしたでかさの泥の小山を包み込んで燃え上がった金色まじりの炎はひときわ大きくて、鬱蒼としたこの水場を真昼のように照らした。

「…………」
「ネサラ、具合でも悪いのか?」

 やっぱりな……。
 さっきよりもはっきりとした悲鳴が頭の中に響いて、無意識にしかめっ面になった俺にティバーンが声をかける。
 本当に、一度庇護しようと決めた相手には目ざといことだぜ。

「俺よりもあんただろう。傷は?」
「腕を掠っただけだ。これだけ傷だらけなんだから、今さら一つや二つ増えたところで死にはせんさ」
「……聞こえてたか」
「聞こえるように言ったんだろうが」

 そう言って俺の頭を小突くと、ティバーンは懐から取り出した布の端を咥えて器用に傷口を縛った。ちらっと見たが、本当にかすり傷らしいな。これなら手当ては後でもいいだろう。
 とりあえず、どうやら泥人形はもう品切れらしいが……。

「ネサラ」
「あぁ、わかってる」

 親玉のお出まし、だな。
 やっぱり、魔力が関係した相手らしい。辺りを伺うアイクとティバーンより先に、リュシオンが固い表情で俺を振り返る。

「なんだ……?」

 本能的な勘だろう。岸辺から身を引いたアイクが訝しげな声で炎に照らされたさざなみ一つない湖面を見ると、しばらくしてゆっくりと波打ち際が遠ざかった。まるで海のように。

「待たせたなぁ。こっちの首尾はどうなんだ?」

 ほどなく、背後の茂みをかき分けてシノンも出てきた。

「見ての通りだ。まだなにかいる」
「……へッ。しぶとい連中だぜ」

 こっちもさすがだな。どうやら傷一つないらしい。
 それ以上言われなくてもアイクの斜め左後方、射手として一番援護しやすい位置につく。

「あの時のやつか……」
「若干姿は変わってるようだがね」

 手を出そうにも、こんな時には魔力の「場」が出来ちまってる。現れたのは、身の丈ティバーンの五倍はあろうかという、水でできたできそこないの人型だった。
 目も口もぼんやりと開いていて、そこだけがぽっかりと穴になったようだ。透明だったはずの水も、まるで墨のように濁っている。
 気配はルカンなのに、姿は違う……?
 固唾を呑んで見上げるリュシオンの身体に満ちた化身の力が金色の光になって、辺りを照らす炎の明かりと混ざった。

「どうするよ? オレが一度撃ってみるか?」
「刺激しても構わないのかわからんな」
「ただ見てたってしょうがねえだろ」

 シノンとアイクの囁くような会話の後、二人の視線が俺とティバーンに向けられた。
 いや、だからって「どうするんだ?」なんて目で訊かれてもな。

「あー…なんだ。とりあえず、俺が行くか?」
「相手がどんな手を使うかもわからないのにか? いくらあんたでもそれは賛成しかねる」
「しかし、相手が動くまで行儀よく待つなんざ、鷹の流儀に反するからな」
「流儀はこの際関係ない。いいからじっとしてろ。今どうするか考えてるんだ」

 ったく、つくづく鷹ってのは頭の中身まで筋肉でできてるな。
 ……しかし、口にしたからにはなにか方法を考えなきゃしょうがない。でなきゃ、痺れを切らせて突撃されるのがオチだ。
 今は一人じゃない分鈍ってるが、それでもじわじわと俺を呼ぶ声は聞こえてる。
 ああ、くそッ! 気が散るな…!
 水が相手じゃ炎の術符は消えちまう。せめて光魔法の使い手か術符があれば……。
 こんな時に化身できないなんて、役立たずにもほどがあるな。
 苛立って水の巨人を睨み上げた、その時だった。

「リュシオン?」

 いきなりリュシオンが俺の前に飛んできたんだ。

「逃げろ」
「え?」
「あれは、おまえを狙ってる」

 顔色を無くすほど緊張したリュシオンがそう言うのと、アイクとティバーンが俺とリュシオンの前に立ちはだかるのはほぼ同時だった。

「ち…!」

 ほとんど無意識に後ろに飛んだ俺を横目で見たシノンの指が、銀に輝く矢を鮮やかに回して俺に手を伸ばした巨人の顔面を射る。
 その矢は不気味に赤く光る両眼の中心を正確に射抜いたが、それだけだった。そりゃそうだ。水だからな。

「鴉王! 本当に心当たりはないのか!?」
「もう誓約に縛られてるわけじゃあるまいし、あったらとっくに言ってる!」
「くそ、やっぱり術符はだめか…!」

 アイクの怒声に俺も負けじと怒鳴り返した前で、リュシオンが投げつけた術符が効力なく消えたのを見て毒づいた。
 あらら、こいつはますます鷺から遠ざかっていくなあ。その内筋肉隆々になったら、俺も腕力じゃ敵わないなんてことになるかもな。
 ――なんて、笑ってる場合じゃないか。

「わッ」

 とりあえず、俺が囮になるか、それとも邪魔にならないようにオスカーのいる辺りまで引っ込むべきか?
 木立のところまで戻って考えようと思ったところで、今度はざわりと細い枝が腕に絡みついて俺は仰天した。
 おいおい、木まで支配されたんじゃ洒落にならないだろ!?

「ネサラ!」
「気にするな。なんでもない!」

 焦ったリュシオンに片手を上げて無事を伝えながら疾風の刃で細い枝を切ると、俺は他の枝がざわざわと伸びてくる姿に鳥肌を立てながら慌てて木立から出た。
 そんな俺を鋭い鉤爪で掴んだのは化身したティバーンだ。

「おい、俺は荷物じゃねえぞ!」
「ネサラ! いくら捕まったからと言って森を傷つけるんじゃない! ちゃんと説得しないか!!」
「鷺じゃあるまいし、無茶言うな!」

 あげく、リュシオンからは説教かよ。むちゃくちゃ言うなあ。
 どうしたもんか。リュシオンのこの剣幕じゃ、まさか利用された森に向かって火の術符を投げつけるわけにも行かないしなあ。
 ティバーンは俺を担いで森と水の巨人のしつこい手から回避、シノンは限りある銀の矢を温存して鉄の矢で威嚇射撃、アイクはその補佐っつーか護衛か? こっちはリュシオンの制止も気にせずに襲ってくる枝を切り払ってるな。
 リュシオンはなにもかもに怒り心頭といった様子で、ざわざわと蠢く森と水の巨人の両方を睨んでる。
 こんな膠着状態はごめんだ。
 思い切って俺が水の巨人と話合いでもするべきかと諦めかけたその時。
 華奢なリュシオンの全身が鮮やかな金色に輝いて、美しい白鷺に化身した。
 風に流れる長く揺れる尾羽も、薄くて繊細な真っ白な翼も、なにもかもが優美だ。
 そして白鷺になったリュシオンはふわりと墨色の湖とざわつく木立の間に降り立ち、慌てて庇いに飛んできたアイクを翼で追い払い、唐突に怒鳴った。

『森よ! 我が兄弟よ! こんな化け物に操られて我を失うなど、恥ずかしいと思わないのかッ!!』

 いや、それ、だいぶ無理がないか………?

『目を覚ませ!!』

 もちろんラフィエルや鷺王ロライゼ様には及ばないが、このテリウスに生きる種族の中で最高の魔力を誇る白鷺の声は、最高純度の金で作られた鈴の音のように幾重にも反響して響き渡った。
 続けて、長い首をもたげて真っ白な翼を広げたリュシオンから、魂まで届く呪歌があふれ出す。
 再生の呪歌、か……。
 その呪歌に込められた魔力に触れて、ちぎられた後も俺の手首に絡み付いていた細い枝が力を失って滑り落ちる。
 異形になりつつあった森も鎮まって、心なしか気配が清浄なものになったようだった。

「……ティバーン?」

 ふと、腹に食い込む鉤爪の感触が消えて、代わりに俺の腰を抱いたのは逞しい腕になった。ティバーンが化身を解いたからだ。

「難しい顔をして、どうしたんだ? リュシオンだってずいぶん力を増したんだ。そうそう倒れたりはしないと思うが」

 リュシオンの放つ金色の光に照らされた顔があんまり厳しいから訊いてみたら、ティバーンの返事はずいぶんらしいというか……乱暴なものだった。

「鷺の力は確かに凄いし、実際助かったんだが、やっぱり俺にはこの清浄な空気ってのがどうも合わん」
「傷に響くのか?」
「そうかもな。……奴さんにも効果があるらしいぜ」

 苦いものを噛んだような表情のティバーンが顎で指した先では、墨色の水の巨人が頭を抱えるように苦しんでいた。
 心なしか少し小さくなってないか?

「ティバーン、下ろしてくれ」
「おまえは狙われてんだから駄目だ」
「あんたがいっしょなら問題ないだろ?」
「………しょうがねえな」

 よしよし、単純で助かるぜ。
 素直に頼った俺に満更でもない顔をすると、ティバーンは俺の腰を抱いたままでアイクとシノンのそばに下りる。
 リュシオンからもそう離れてないし、なにより今のリュシオンに手を出せるような魔物ってのはないからな。

「やっぱり……。水も穢されてたってことか」
「おいおい、さっきはこの水で料理したんだぜ? 大丈夫なんだろうな」
「それは、リュシオンが『水を使う時はいつでもまず私が清めてからだ』って言って謡ってたから大丈夫じゃないのか?」

 渋い顔をしたシノンにアイクが答えると、俺もほっとする。
 それなら心配ないな。リュシオンがいてくれて本当に良かった。

「どうも小さくなったと思ったら、表面から水が清められて行ってるからか」

 ようやくティバーンも合点がいったように呟いて、こうして見ている間にも水の巨人はどんどん小さくなって行く。
 歓迎すべきところなのかも知れないが、俺にはできなかった。水の巨人が小さくなるにつれ、よりはっきり頭の中にこいつの声が響き始めたからだ。
 ………情けないが、一人じゃなくて良かった。
 ティバーンのいらんほど強い気配はもちろん、リュシオンも俺を惹きつける呪縛を弾き返してくれる。
 いつまでも頼ってちゃいけないのはわかるが、どうするのが一番良いのかまだわからないってのが問題だな。

「なんだ…!?」
「中に誰かいるのか?」

 ――現れたか。
 ティバーンが俺の腰に回した腕に力が入って、シノンが切れ長の目を眇める。アイクのアロンダイトの柄を握る手に力がこもるのも音でわかった。

「あれは……?」

 最後に謡い終えたリュシオンが化身を解いて見つめた先に、その男がいた。
 この前みたいに、水でできた幻じゃない。
 ぼろぼろになった僧服、干からびた肌、艶のない金髪と、虚ろな目……。
 あれだけ傲岸不遜だった男が、変われば変わるものだな。
 それでも、虚ろなだけだった目が俺を見つけたとたん、禍々しい赤を帯びる。

「く…っ」

 リュシオンが息を呑んだのはこの男から溢れるおぞましい負の気のせいだ。

『カ…ラ…ス…王……!』
「どうも。……お久しぶりで」

 かつての元老院の副議長、ガドゥス公ルカンだ。
 まったく、身についた習慣ってのは嫌になるね。
 ティバーンの腕が俺を捕まえてなかったら、俺は無意識に跪いていたかも知れない。
 いくら表情を取り繕ったところで鼓動は乱れて、全身にじわりと嫌な汗が滲む。
 左の手首が痛いような気がした。この男に呼ばれて、何度この手首にあったあの赤い印が光を帯びただろう。
 今のルカンの目と同じ、禍々しい血の色の光は、未だに俺の心の奥深くまで犯したまま消えていない。

「あいつは、あの塔で死んだんじゃなかったか?」
「……皇帝がとどめを刺したはずだがな」

 驚いたアイクとシノンの呟きに、俺も内心で頷いた。何回も。
 ああ、そうだよ。そのはずなんだ。
 それなのに、どうしてなんだ……?

『コチラヘ来イ』
「断る」
『来イ』
「嫌だ」

 当然のように伸ばされた手には、煤けた豪華な指輪がいくつもついている。
 繰り返されるつまらない命令に、俺はティバーンの腕から強引に抜け出しながら答えた。
 あの頃はただの一度も許されなかった、断りの言葉を。
 苛立って不気味に唸ったルカンに本能的に竦みそうになる身体に舌打ちして睨みつけると、そのルカンの額に銀の矢が飛んだ。

「…チッ、効果なしかよ」
「おいおい、ベオクにしちゃ恐れ知らずだな」
「うるせえよ、鳥翼王。心にもねえこと抜かすな」

 でもその矢はルカンを貫くことなく、触れる一瞬前に砕けて散った。
 そして、ルカンの目にぞっとするような光が灯る。

「あ…あッ!」
「リュシオン!」

 アイクに支えられたリュシオンだけじゃない。その禍々しい光をまともに見ちまった俺の膝まで崩れそうなほど、恐ろしいなにかが伸びてくる。
 ………怖い。
 認めたら、負けだ。
 それがわかっていながら、情けないことに俺は目を逸らさずに湖面を滑りよって来るルカンに対峙して立ってるだけで精一杯だった。
 俺を呼ぶ声が強くなる。
 本当に、この手首にあの印はないのか?
 また浮かび上がって俺を縛るんじゃないのか?
 俺は…俺は、まだ正気なのか……!?
 何度も何度も自分に問いかけて、歪んだルカンの形相を睨みつける。
 目を逸らしたら負けだ。
 それなのに、いつまでも見ていると無意識に引きずられる心がある。
 堪えられない息が浅い。眩暈がする。
 耐えられなくなって疾風の刃を放とうとした俺の翼が撫でられた。
 大きくて固い手のひらは、ティバーンだ。
 力強い羽ばたきの音がして、俺から離れたティバーンがルカンの前に立つ。
 あいつから感じるのは闇の魔力だ。ただでさえ魔法には弱いのに、まして化身前なのに、危ない…!!
 止めようと思ったのに、情けない俺の喉はすっかり干上がっちまってかすれた声の一つも出せなかった。

「あんたには見覚えがあるぜ。ガドゥス公ルカン、だったか」
『貴様ハ……タカ王………』
「今は鳥翼王だ。うちのネサラをずいぶん泣かせやがったらしいな?」

 ティバーンの低い声に、憎悪と言ってもいいような、ドス黒い魔力がルカンから立ち上る。

「ティバーン!!」

 俺とリュシオンの悲鳴のような声がほぼ同時に上がった。
 駆け寄ったアイクの剣も、シノンの放った矢も間に合わない。
 膨れ上がった闇魔法が一気にティバーンを飲み込んで、俺はほとんど無意識に羽ばたいてティバーンの広い背中を抱き込もうとした。

「あ…ッ!」
「鴉王、いけません!」

 そんな俺を体当たりのように止めた鋭い制止は、オスカーだった。
 伸ばした指先が黒い魔力に触れて火花が散る。
 爪がはじけ飛ぶような痛みと同時に鮮血が散ったけど、痛みなんか感じなかった。俺はどうでもいい。ティバーンは…!?

「離せ!」
「大丈夫です。大丈夫……」

 もがきながら喘ぐような息をするしかない俺を引きずって岸に戻ったオスカーの声も聞こえない。
 化身の石を使って無理に化身したリュシオンが舞って、その黒い炎のような闇魔法を打ち払った先に現れたのは、全身に淡く緑の光を帯びた大鷹だった。
 どうやら傷はない。ティバーンお得意の翼の守護か…!?

「ま、魔法まで弾くのかよ……非常識なヤツめ」
「ほら、大丈夫だったでしょう?」

 思わず狼狽した姿を晒した気恥ずかしさにぶつくさ文句を言うと、笑ったオスカーがぽんと俺の肩を叩いて表情よりは油断なくルカンとティバーンを見る。

『オノレ…!』
「うぜえよ」
『!』

 激怒したルカンがもう一度闇魔法の呪文を唱える前に、化身を解いたティバーンの大きな手がルカンの顔面を掴んだ。

「てめえを操る主人がいるなら伝えろ。この鳥翼王ティバーンが必ず挨拶に出向くとな」
『―――ッッッ』

 固い果物が砕けるような鈍い音がして、黒い魔力が弾け飛ぶ。
 臓腑を抉るような悲鳴と骨まで突き抜けるような断末魔のざらついた魔力に内臓まで抉られて、俺はこみ上げた吐き気を堪えきれずに膝をついた。
 リュシオンも、弾け飛んだ魔力を振り払ってすぐに化身を解きながら俺のそばに落ちる。

「な、なんだ、あいつは…!? ネサラ、おまえは知っていたのか?」
「鴉王、大丈夫ですか?」

 くそ、真っ青なリュシオンに声を掛ける余裕もねえ。
 銀の槍を片手に心配そうに俺を支えるオスカーの手を払って、俺は何度か震える息をついた。
 ルカンは……消えたか。
 あのおぞましい悲鳴の後、まるで初めからなにもなかったようにルカンの姿は掻き消えていた。
 転移の杖とか粉か? 本人かどうかは知らないが、それを持っていたかどうかぐらい自分で確認すりゃ良かったな。
 この中で見分けがつくのは俺だけだったろうに。
 まだ内臓がひくついちゃいるが、これぐらいは抑え込める。
 俺はどうだっていいが、とりあえずリュシオンが無事そうで良かった。ティバーンは……。

「ネサラ、どうした!?」
「………無事、そうだな」
「あ? 俺の話じゃねえだろ! 怪我してやがるじゃねえかッ」
「いちいちうるさい」

 大体、あちこち傷を増やしたのはどっちだ?
 あんなことをしてさすがに今度は無傷ってわけにはいかなかったらしいな。戻ってきたティバーンは服にも肌にも、あちこちに細かい傷を増やしていた。
 腕の傷まで悪化したんじゃないのか?
 それなのに、人の心配ばっかりしやがって……。

「ネサラ?」

 俺なんか、指先だけだろうが。
 爪が多少割れようが引っこ抜かれようが、今さらなんだよ。
 骨をへし折られたことだって何回もある。
 だからこんなの、痛くもなんともない。
 そう言おうとした唇はただ震えてうっすらと白い息を吐いただけで、なにも言葉にならなかった。

「………あいつのこと、知ってたんだな?」

 滲んだ涙を見られたくなくて俯くと、似合わねえ優しい声でティバーンが俺に訊く。
 リュシオンが緊張した気配が伝わった。周囲を確認して戻ってきたアイクとシノンも。
 ここで黙ってても、もうしょうがないか……。
 観念して小さく頷いた瞬間、鈍い音と同時に星が見えた。
 なんのことはない。ティバーンのでかい拳が俺の頭を殴りやがったからだ。

「この馬鹿! なんで今まで黙ってた!?」
「そうだぞ! 今のティバーンの拳には私の気持ちも入ってるからな!!」
「い…てぇ……ッ」

 信じ難い暴力に痛む頭を押さえて今度こそ転がり落ちた涙を拭うと、俺はまさしく大喝といった迫力で落ちてきた二人分の雷に打たれてしゃがみこむ。
 油断させておいて、これか…!
 ったく、俺を頑丈な鷹と同じに扱うなよ。死んだらどうする気なんだ!?

「ま、まあまあ、鳥翼王様! それにリュシオン王子もどうか落ち着いて」
「いいんだ。優しくばっかりしたところでこいつはちっとも素直になりゃしねえ。そら、いつまでくたばってる気だ。立ちやがれ!」
「そうだ! オスカー、いつもネサラはこうなんだ! 心配ばかりさせて…! さあ、説教はまだ終わってないぞ! ティバーン、戻りましょう! 私はまだまだ言いたいことがあります!」
「おう、俺もだ」
「ちょ、乱暴はよせ…!」

 だから、痛いんだよ!
 俺の意志や抵抗なんてないも同然だな。
 ティバーンはぐいと手首を掴んでまるで荷物のように俺を肩に担ぐと、仕上げとばかりにばちんと尻まで叩かれた。

「痛いッ! 畜生、覚えてろッ」
「さあ、話を聞きながら傷の手当をするぞ。アイク、シノンも戻るぞ。火が消えちまったからまったく見えん。案内してくれ」

 気のせいじゃなければ、オスカーとシノンが笑った気配がする。
 よ、よりにもよってこんな醜態をベオクの前で……!
 身をよじっても翼をばたつかせても当然のように押さえ込まれて、俺は意味もなく唸りながら分厚い筋肉に覆われた広い背中を何度か叩いた。
 遠くから俺を見つけて「どうしたんすかー!?」と叫んだガトリーの声が聞こえたけど、なにも答えられないし、答えたくもない。

「なんというか……まあ、がんばれよ。鴉王」
「アイク、そりゃなんの励ましにもなってねえぞ」

 最後に、本人なりに気を遣って寄って来たアイクの無愛想な慰めとシノンの突っ込みにうんざりとため息をつくと、俺はどうやっても外れない逞しい腕に諦めてただぐったりと荷物に徹することにした。



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